中越地震発生の日の昼まで魚沼にいました。
発生時は福島県会津地方でした。
翌日の昼に魚沼に引き返しました。
震災から二日後の朝に被災地に入りました。
堀之内までは車で行けましたが、そこからは歩きです。
前日に群馬で、パン、バナナ、水、お菓子などの食料品を購入、
当日に、小出で新聞を購入、
それらをリックに背負って、
思い入れのあった川口町木沢集落に歩いて向かいました。
車であれば1分もかからないトンネルの向こう側までは山超えし1時間。
トンネルは崩落の危険があるとのことで通行できなかったのです。
集落までは、そこから1時間半ちかくだったでしょうか。
合計2時間以上かかりました。
歩いている間の、
激しい揺れの余震、遠くから聞こえる地鳴り、今でも身体が覚えています。
コンパクトカメラを持っていきました。
困っていらっしゃる人や倒壊した家屋には
カメラを向けないと決めていました。
その写真は、その後もずっとロッカーにしまったままでしたが、
今日から横浜で写真展なので、中越地震の記憶をつないでいくために、
ブログにアップします。
ちなみに、木沢集落は震度7を記録した震源地で、しばらく孤立した集落です。

堀之内から川口へ抜ける国道17号の和名津トンネルの手前で通行止め

和名津トンネルの向こう側は道路が寸断されたので車は放置

木沢に向かう途中の道は至る場所が崩壊

激しい揺れの証しでねぎが土から出ていた

川口町役場前に避難された方たち

ボランティアセンター設置される前の自衛隊による被災者食事支援

救援物資が昼夜次から次へと運ばれてきた

救援物資の仕分けは少しずつ集まってきたボランティアなどで

崩壊の恐れが出た和名津トンネルが使えないので山越えの道は通行する人によりどんどん太くなっていった

木沢集落の人々は集まって煮炊きしていた
木沢集落には2日間向かいました。
1日目は、食料や新聞を集落の方たちに届けたところ、
下の病院から薬をもらってきてほしいと頼まれたので、
町まで下りて2箇所の病院へ行き受け取って届けました。
2日目は、食料品以外に、
頼まれたタバコと退屈している子供達にと絵本やマンガを買って
前日と同じように山越えして向かいました。
集落の人たちに食料などを渡したあとは町へ下り病院へ行きました。
というのも、前日に訪ねた病院で診察室の片付けの手伝いを頼まれていたからです。
3日目、4日目は、町の社会福祉協議会での
救援物資の運び込みやボランティアセンター立ち上げ設置の手伝いをしました。
連日、トンネルの上の山越えをしましたが、向こうとこっちで
被害が全く違うことに驚きました。
木沢集落の人たちは、
自分達で水道を引き、道を直し、
みんな集まって煮炊きをしていました。
重機を動かす燃料と壊れた場所の保護のためのブルーシートを
とにかく欲しがっていました。
自分達でできることはして直していく覚悟があったんですね。
とても強いんです。
訪ねた2日目に、朝ごはんをご馳走になりましたがおいしかった。
新米と食用菊のおひたし(もってのほか)が、忘れられません。
地震発生当時に、私が魚沼にいるのではと
先輩や友達から電話やメールをいただきました。
心配して連絡くれた方たちの “
励まし” は、今でも忘れていません。
取材の途中で寄ったのですが、
たった四日間でクタクタになりました。
その後、季節を変えて2回ボランティアに行きました。
今日から、神奈川県横浜市で写真展です。
第7回 中越蘖(ひこばえ)展 2011
佐藤尚 写真展「こころの故郷・魚沼の風景を撮る」。
皆様、お待ちしております。
posted by satophoto at 06:39
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中越地震